4月14日、中平卓馬に遭遇。 そして今日、ABCで行われたトークイベント(中平卓馬×倉石信乃×八角聡仁)に参加。 先日刊行された批評集成 『見続ける涯に火が』 ではないけれど、中平氏、かなりギリな涯にいるなという印象。
「スモーク」という映画があります。 ニューヨークのブルックリンにある煙草屋を舞台に、そこに集う人々のちょっとしたエピソードを綴ったもので、村上春樹やポール・オースターの短編小説集を思わせる雰囲気の映画です。そこの常連客にポールという作家がいて、あるとき煙草屋の店主オーギーが趣味で写真を撮っていることを知り、見せてもらうことになります。オーギーが撮っている写真は、毎朝まったく同じ時刻に同じ場所で1枚だけシャッターを切ったもので、4千枚に及ぶ写真は日付順にきちんとアルバムに整理されていました。
ポールにとってはどれもこれも同じような代り映えのしない写真にしか見えず、次第にろくに見もせずに次々とアルバムをめくりはじめます。するとオーギーが言います 「ゆっくり見なきゃダメだ、でないと何も見えない... 同じように見えても、一枚一枚全部違う写真なんだ」 と。世界の小さな片隅に過ぎないけど、そこでもいろんなことが起きているんだと。
そこでポールは、あらためてゆっくりと1枚1枚写真を見始めます。
しばらくすると、ある日の一枚の写真に息をのみます。そこには、数年前に起きた銀行強盗事件で亡くなったポールの妻が写っていたのです。ポールはあふれる感情を抑えきれず、とめどなく涙を流します。オーギーは、ポールが妻の死による喪失感からいまだ立ち直れずにいることを感じて、あえてそのアルバムを見せたのでしょう。1枚の写真によって2人の間に言葉にならない何かが共有され、ポールの心が癒され立ち直るきっかけとなります。 このシーンが実に良いのです。
久しぶりに見て、ひとつ感じたことがあります。
写真は過ぎ去る光景や想い出を保存する記録媒体だと思われています。でも写真を見たときに感じる色々なことは、はたして写真の中に記録されているのでしょうか? 遠い昔の光景、過去の想い出、湧き上がる感情など、それは写真の中では無くそれを見る人の中にあると思います。ですから写真は記録媒体というよりも、むしろ再生装置なのではないでしょうか。写真をみることで、とうに忘れていたことや光景が、思いもしなかった気持ちが再生されるのです。でも写真という再生装置はとても小さくて断片的な再生ヘッドしかもたないため、ぱっと見ただけでは何もわからないし何もおこりません。
オーギーが言うように、写真を見るときは ゆっくり と。
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スモーク(SMOKE/1995年/アメリカ)
監督:ウェイン・ワン
脚本:ポール・オースター
出演:ハーヴェイ・カイテル、ウィリアム・ハートほか
※村上春樹&ポール・オースターっぽいと書きましたが、調べたらポール・オースター原作/脚本でした。 この映画、ラストもいいです。
このところ 中平卓馬だらけの毎日...※第3回 photographers' gallery講座
.「再読・中平卓馬 1.ブレとボケ 2.記録と芸術 3.国境 4.現在」
.http://www.pg-web.net/home/pg_lecture/2006/03kohara.html
現像を終えたばかりのまだ濡れているネガを光に透かすと、そこには曖昧で不定形な事実が脈略もなく並んでいる。 その夥しい流れの中からひとにぎりの事実をえぐり出すように、1枚の写真をつくり出してゆく。 自身の現実をつくり出しているように思われてきます。 過ぎ去ってゆく瞬間を意味づけ、記憶という物語を刻一刻改竄してゆく行為としての写真、それは生きること、つまり人生そのものではないでしょうか。 写真が人生だと言っているのではありません。 生きることが、一遍の虚構を練り上げることに似てくると思ったのです。 単なる物質の化学反応であるはずの写真が、象徴の輝きを帯びてくる。]]>
懐かしさにとらわれることが多くなったのは、年齢のせいなのでしょうか。
絶対的な価値基準というものを考えたとき、はたして僕達に、趣味と嗜好の他になにがあるのでしょう。 たとえば写真の価値、あるいは作品の価値をどこまでも追求していったとき、絶対的な判断というものは誰にも下せないのではないかと思うのです。 これは写真に限らず、詩や文学や絵画、音楽や映画をも含めた現代芸術すべてにあてはまることでしょう。 でも10人のうち10人全員の意見が一致することがあるのも確かで、そこに恣意的な好みの問題を超えた、何か普遍的なものがあるのではと考えることも可能です。 しかしそれは、ある土地、あるいは ある時代の感受性の傾向を表しているだけなのではないでしょうか。 作品の周辺を読み取ることはできても、作品の価値そのものを語ってはいないと思うのです。
だから批評は個々のつぶやきとして、つまり最後には、まわりが何と言おうと僕はこの写真が本当に好きだし、だから僕にとって絶対的に価値があるんだと一人ごちるしかない。逆説めく言い方ですが、どれだけ誠実に主観的であるかが批評の客観性にかかわるように思うのです。
※お茶の水に新しく出来たギャラリーで清家冨夫氏の展示が開催される。 氏の写真集「ZOE」は僕の宝物のひとつ。 ノクチルックスの開放で撮られた女性のポートレイト集を見たとき、窒息に似た感動を覚えた (ライカを買ったのはこの写真集を見たため。 がしかし ノクチルックスは買えてない...)。 セイケトミオは僕の中で別格の写真家。
また9月は中藤毅彦氏の展示が2つのギャラリーで同時開催される。 ロシアと上海の作品。 なんとも嬉しい。
清家冨夫写真展「モノクロームの時間」
(http://gallery-bauhaus.com/kikaku.html)
中藤毅彦写真展「Street Rumbler Shanghai/Russia」
(http://niepce-tokyo.com/index2.html)
書くということは隠すということだ、とその友人が死んだ。
彼は小林秀雄に傾倒していた。
鎌倉を歩きたいと思う。小林秀雄が過ごした鎌倉で、友人が見つめていたものを撮りたいと思う。 たった一人のためにも、写真は撮っていけるのだ...
夜、鴉の夢で目を覚ます。... 烏が一疋下りている。 翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。 百年碧血の恨が凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。
吹く風に楡の木がざわざわと動く。 見ると枝の上にも烏がいる。 しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。 傍に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺めている。 (中略) 小供は女を見上げて 「鴉が、鴉が」 と珍らしそうに云う。
それから 「鴉が寒むそうだから、麺麭をやりたい」 とねだる。 女は静かに 「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」 と云う。 小供は 「なぜ」 と聞く。
女は長い睫の奥に漾うているような眼で鴉を見詰めながら 「あの鴉は五羽います」 といったぎり小供の問には答えない... (夏目漱石/倫敦塔)
映画館が好きなのよ。 ひとつ置いたところに座っている女性の声が耳に入る。 隣に座っているスーツ姿の男性に話している。 そうじゃないの、映画は映画館でというようなこだわりは全然ないのよ。 僕は本を閉じて、千駄ヶ谷あたりかと電車の外を見るが暗くて分からない。悪くない... たしかに、悪くない。
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会社帰りに撮っているため、僕の写真は夜がほとんど。 しかし何だか急に夜は撮る気がしなくて、ここ4~5日は酒ばかり呑んでいる。 友人と呑みながら、写真のことも話したり聞かれたりするわけだが、たとえば昨日の会話...
「...で、どういう写真を目指してるわけ?」
「目指すって言うか、魅かれるのはさ、たとえば見渡す限りのひろ~い草原があったとするよね。 で、その真ん中に何かがあったり 動いてたりする景色よりも、端の方にいつも何かが消えていくような景色に気持ちが持っていかれるんだよね」
「う~ん...?」
「フランスにさ、ポール・ヴィリリオっていう哲学者がいてね、その人はバックミラーに映り流れる風景を見るためだけに、暇があればパリの環状道路を車に乗って走り続けたんだよ。 解るんだよね俺、なんかその気持ち」
「じゃぁ、F1とか いいんじゃないの?(笑)」
「うーん(笑) 具体的なもんじゃなくて、そういう印象というか感覚の話でさ」
「写真家でいうと?」
「そうだねぇ、まぁあえて言えばベルナール・プロスとか、日本だったら鈴木清とか...」
「二人とも知らないなぁ。」
...それは言葉にしにくいし、言葉にしてしまうと非常につまらないものになってしまう。
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..「<ぼくは見た> が起こる」 奇妙な言い方だ。 -- たとえば、夢の経験。 それについては、<ぼくは見た>と言うことによってはじめて、夢が夢の現実、夢の経験として可能になるのではないか。 もしそのとき、その夢が言葉を不可能にしてしまう夢、私から<ぼく>と言う力を根底的に奪ってしまうような夢だったらどうだろう。 <ぼく>というものが死ぬ夢だったらどうだろう。 そして、さらには、それが夢ではなく、現実 -ただし現実というものが不可能になった現実- だったとしたらどうだろう.. (大地から/への転回-ハイデカーと大地の喪失 - 小林康夫)
バライタ六つ切30枚買う。
第3のビールと呼ばれているやつを呑んでみる。 はちきれんばかりの不味さにびっくり。